NPO法人ペタアートネットジャパン(PAN-J  アート研究講座(2016年度)

「表現者の宇宙」〜アーティストの背後から見えるもの〜  

 

<講座要旨>

第一回 4月15日(金) 立花寶山氏(舞踊家、立花流宗家)

 「身振りの伝承」(1)

о 表現者として、身体を通じて心の中の宇宙を表現する個人的体験を語る。

それは作品のシチュエーションを深く感じ取り、そのものと一体化することであり、そこに創作(創造性)がある。

о 日本舞踊の由来(源流)は古代に遡るが、今日の舞踊は歌舞伎から発生し、明治以降の新楽劇運動(坪内逍遥ら)を通して独立して演奏、上演されるようになった。

о 川上貞奴、平塚雷鳥など女性の台頭と結びついて新舞踊の五条珠実、花柳寿美などの舞踊家を生む。

о 立花流は市川宗家・猿翁の弟、市川中車が創始し、「隅田川」「里塚」「火炎獅子」などの名曲を生む。

 立花寶山師は東宝劇団に所属し、演劇的解釈を役柄づくりに心掛けた。従って役柄から入って「気」の伝達を重視している。

 

<身体表現と舞台空間>

о シチュエーション――あるつもりの状況から身体の動きを表出する。

о 身体と空間の関係においては、身体が場面を作っていくことでもある。

о 身体を軸にして手を伸ばし、グルリと回ることによって、状況が見えるように動いていく(身体の中心軸を基点として、一回りして元の位置に戻る動きで示された)。

о 舞台空間には、目に見えない無数のキューブ(またはグリッド=格子)があり、それを身体が押し分けていくことでもある。

 

<舞台に立つということ>

о 能舞台で言えば、天の「気」は天井から破風を伝って下りてくる。

舞台に満ちた「気」は橋掛かりを通って揚幕に押し寄せる。

橋掛かりでは「気」が増幅されるので、それを押し返すように本舞台に進むことになる。

о 野外劇の場合、空間のつかみ方は周囲の様々な要素が身体にしみ込んでくる。身体表現はあらゆる状況を蓄積し、自分の引き出しに入れていくことによって身に付いていく。(法然院における「荒野聖」の体験を通して語られた。)

о 芝居や所作の出来栄えは、演ずる前の様々な体験が時間をかけて身に付いたもので決まる。楽屋での体験や気遣いも大切な要素となる。

<日本舞踊と西洋舞踊の違い>

о 「気」の位置が胸か腹かの違いで、動きの違いを生む。(子供は「気」の位置が高いから動きが活発になる)

 腰を落とし気味に動く日舞、跳ね上がるように動く洋舞と言える。

 常磐津「千代の友鶴」の素踊りで、手先の世界を示す実演あり。

                      質疑応答     (小石新八・記)

 

 

 

第二回 4月22日(金) 立花寶山氏 「身振りの伝承」(2)

<前回の補足>(重複部分は要旨割愛)

о身振り――空間を身体がどのように感じ、表現するかを示すもの

 

<日本舞踊の成り立ち>

о 芝居(歌舞伎)から育った舞踊家と、舞踊を専門とする舞踊家では捉え方に違いがある。

о 舞台装置が象徴する背後の空間を支える身体がある。舞台の居所によって、背景との関係が変わるのをどのように伝えたらよいのか。

о 屋外から屋内に入った舞台は、野外とは違う広がりがある。舞台空間との一体化が必要になる。

 

<身体と空間>

о 身の丈以上に空間を内在させることによって、空間を身体で動かせる。

 前回触れた能楽堂で言えば、「気」が上から流れ下りてくる。その「気」と融和することによって舞台に立つことができる。

о 舞台の中心に立つと両側から見えない力で引っ張られる。その力が動きとともにたわむ。形の変化がシチュエーションの変化を生む。身体はその場(状況)にいかざるを得ない。

о 日常の中で受け止めているものが、空間とぶつかる瞬間が身体にスイッチが入る瞬間でもある(身体の覚醒?)。

例えば走っている車の前に横向きの車が出てくるとき、人は瞬間的に時間の密度が変わるような体験をする。光景が、時間がゆっくりと回る。世界が高速度で回転する。

о 人は心配事があると、心臓の鼓動が遅くなる。度が過ぎれば一度止まって倒れることにもなる。

 

 

<舞踊の学び方>

о 生活や環境の中で学ぶ―見ることで育つ。

 「見る」とは、形の中にある心象を見ること、

それを身体の中に取り込むこと、体験が自分を(人を)育てることになる。

о 修行時代は舞台の脇で見ることで育つ――舞台裏では効果も担当する、様々な体験をする。楽屋では着付けの前面を受け持つ(鏡の役をすることにもなる)。身頃、袖丈など小さな感覚を体得していく。

о それらを引き出しの中に取り込んでおく。それが表現につながる。

о 善のほうから悪を見ていくのではなく、深いところ(悪、闇)のほうから見ていくほうが物事は理解できる。

 

<身体の表現>

о 身体の表現は「床」から始まる。

 天女が飛ぶ姿は、廻っていくことで高さを見せていく。シルク・ド・ソレイユのような身体の限界への挑戦とは違う。

о 日本舞踊の場合、イメージを取り込んで、上昇・飛翔するものを見せる。音響に合わせて見せる。

о 観客には舞台にあるものを受け止めてもらう。

о 見る側が受け取るもの―展覧会の絵のように「舞台」がある。

о 表現者と観客の交流―やり取りがあって伝わっていく。だから歌舞伎の所作は芝居を伝える約束事(文法?)になるが、日舞の原点は素踊りにある(身体の中にあるものを伝達する手段として...)。

 

<素踊りの原点>

о 舞い――拝む→舞いの所作→囃す―摺り足→反転

移動→位置を変えて→元の所に戻る

о 踊り――風流からの伝承(名残)→手踊り→気分の動きを見せる

о 振り(くどき)――ふりごと、男女のやり取り→道行では男女の入れ替わりを一人で踊り分ける。

о 見立て――芝居の気持ちを動きで見せる。扇の動きが意味を持つ。着物を着ている動きを前提に身振りが決まる。

 

о 年齢差の表現、体型が作り出す動き

   子供・・胸前高く、袖の位置も高い。 娘・・袖を胸前で高めに合わせる。

   芸者・・袖を下げて合わせる。    年増・・腰を落としていく。

   老婆・・腰を曲げていく。

о 表現は個人的なものであるが、動きが意味を持つ。

 

<実演>

   「勧進帳」幕切れ、弁慶の大盃から舞いとさしの場面

                     以下質疑応答  (小石新八・記)

 

 

 

 

 

NPO法人ペタアートネットジャパン(PAN-J  アート研究講座(2016年度)

「表現者の宇宙」〜アーティストの背後から見えるもの〜  (2)  

 

<講座要旨>

第三回 5月13日(金) 守輪咲良氏(演出・演技指導)

 「演劇と身体、空間」

 

о 自己紹介: 小樽生まれの札幌育ち、父は日本郵船の外航船の乗組員。坂の上から

港が見える所に生活の拠点があった。高校・大学時代はオーケストラでヴァイオリンを弾いていた。

о 70年安保闘争の時代で、大学(東京)ではデモ隊と警官隊が衝突を繰り返していた。ノンポリの自分は心のバランスを失い、自分の自然の状態が分からなくなり、

 ヴァイオリンを止めてしまう。

о 友人の誘いで、別役実の「マッチ売りの少女」で影絵の少女を演じた。俳優養成所

に通い始める。

о ニューヨーク(NY)から来ていた先生に勧められてNY行きを決意。その先生

にヴィザの保証人を依頼し、国際演劇協会(ITI)への紹介状を書いてもらった。

 

<アクターズ・スタジオ>

о 1972年アメリカには2週間かけて船で渡航、アメリカン・プレジデント・ラインの豪華船でサンフランシスコに到着。2週間水平線と海を眺めて父を思い、大陸をバスで横断して世界の広さに出会う。

о ITIを通してNYのアクターズ・スタジオの見学の許可をもらい、リー・ストラスバーグに出会う。見学は一度しかできない。

о 20年代にスタニスラフスキーの弟子でアメリカに亡命したボレスラフスキーとウスペンスカヤから学んだ若者たちの中からステラ・アドラー、サンフォード・マイズナー、リー・ストラスバーグの3人のメソッド教師がうまれたが、ストラスバーグはアクターズ・スタジオの設立時、エリア・カザンによって指導者として迎え入れられた。

о 見学した時、椅子に座る一人の女優が本当に泣きながら演技する姿を見て衝撃を受け、勉強したい気持ちになった。

о 競争の激しいアメリカでは常に新しい才能、新しい表現が求められており、またブロードウエイの俳優たちにとっては演技のマンネリ化を脱皮するための場が必要であった。

о 与えられたシチュエイションの中で人物の内面に何がおこっているかを実際に体験することが要求される。また想像力のなかでリアリティを追求していくため極限まで自分の体験をスタニスラフスキーの「もしも・・・」で拡大していくが、最終的に体と声とでコントロールすることを覚えていく。

 

о NYではロフトに住んでいた。既製服の工場跡でアイロン台、ミシンなどがずらりと並んだraw spaceから着手、配管がむき出しの空間を間仕切りして共同生活を営む。壁も床も全部剥がして塗り直し、配管も自力。

о 仲間たちは他人の生活空間にも自由に出入りする。犬を飼い共に暮らすアーティストの共同体である。パーティやパフォーマンスに明け暮れた。

о パフォーマンスは日常の枠からはみ出して表現へ挑戦する面白さがある。その一方でストラスバーグのリアリティを学ぶ。

о 1982年一時帰国。札幌駅裏八号倉庫でパフォーマンスを実践、谷川俊太郎の絵本「なおみ」から、少女の成長と市松人形の出会いを演じた。札幌の7メートル以上の石積みの壁を持つ空間体験は、その後、東京の地下空間での演劇への闘いの始まりに。

о ストラスバーグの死(82)を契機に帰国を決意。当時の日本はバブルの絶頂期。

о 右脳(感覚脳)の活性化に浸っていた世界から、左脳(論理、言語脳)で考える縦社

会に戻り、自分の居所探しに時間がかかった。現在また若い世代の人たちが変わってきており、指導にさらに苦労している。

 

<空間と身体表現>

о 空間を自分自身が感じて表現するのは伝統芸能も同じであるが、メソッドでは意識的に空間にいる自分を体験する訓練を受けた。

о メソッドでは俳優の身体は楽器に例えられる。内面におこったものを、身体を通して外側に表現する楽器。

о 役者は一点集中から脱却しなければならない。空間を取り込んだ開かれた状況での集中が要求される。

оメソッドの訓練は、まず見ることから始まる。どこにいるか、そこにいると(実際には見えないが)見えるものを見る(想像)力が必要とされる。それが舞台に立つ者の感覚である。

о “ I see an apple.” リンゴが「見える」と言うことは、リンゴだと「わかる」こと。

 感覚訓練では、リンゴを「感じとれる」ことが要求される。

                                 (小石新八・記)

 

 

 

 

 

 

 

 第四回 5月27日(金) 守輪咲良氏(演出・演技指導)

 「演劇と身体、空間」

 

о 1982年、札幌でパフォーマンスをした後、師ストラスバーグ氏の逝去を知り、再渡米する。

о ストラスバーグ氏はアクターズ・スタジオで、多くの俳優を指導した。映画スターとなったポール・ニューマンも、アル・パチーノも舞台俳優だったが、映画で評価された。ストラスバーグ氏自身も映画に出演した後、指導に変化が生じた。

о その指導法を前期と後期に分けてみると、前期は感情表現を重視したもので、後期はシチュエイションをより重視し、俳優の存在に的をあてた指導といえる。

 

 <日本での出発>

о 1982年帰国を決意した。しかし日本では逆カルチャーショックとも言える状況の中に身を置いていた。

о 演出家・関矢幸雄氏〈素劇舎〉との出会いが大きく進路を決めたと言える。最初の作品は、ノーマン・コーウィン作「私のカーリー」、これはラジオドラマの名作「この虫10万ドル」の舞台化であった。

о その後、有吉佐和子作「山彦ものがたり」の舞台。

о 素劇舎を離れたあと、スタインベック作『二十日鼠と人間たち』を1年かけて手掛けた。コーヒー豆の袋だけで各場面づくりをしたが、NY時代に影響を受けたピーター・ブルックや関矢氏の素劇の影響。国立劇場の音響さんに指導をあおぎ、生音だけで上演した。

 

 <マリヴォー作品の連続上演>

о 18世紀フランスの劇作家マリヴォーとの出会いは、劇団四季創立者の一人、米村晰先生による。先生はジロドゥー、アヌイ、フェドーなどの劇作品やメソッド演劇の紹介書などの翻訳をなさっていた。

о 米村氏からマリヴォーとゴルドーニ(イタリア18世紀)の作品を紹介された。

о 折しも、下北沢で見たニール・サイモン作品の連続上演で、日本の役者の演技に

ギャップを感じ、舞台上のリアリティの表現に危惧を感じた時でもあった。

о 18世紀古典劇中の人物の大きさや客席とのコミュニケーションの取り方の面白さがあり、時代や人種を超えて現代劇として取り組む気持ちが芽生えた。

о マリヴォー劇に登場するアルルカンはイタリアのコンメディア・デ・ラルテのアルレッキーノから転じた道化で、もはや現代劇には見られないキャラ。酒と女が大好き、子供のような純真な心を持って活躍する。このアルルカンに魅せられたことも大きい。

 

о まず、ゴルドーニの『ベネツィアのふたご』やマリヴォーの『贋の侍女』で、現代に根ざした18世紀演劇を創造してみた。その後マリヴォーの作品にしぼり、渋谷ジァンジァン(地下ホール)で連続上演をした。

о マリヴォダージュと言われる独特の言い回しや相手の本心を探り合うような言葉(せりふ)のやり取りが面白いのだが、その持って回った言い方のややこしさのために、かつては日本では上演不可能とも言われていた。

о マリヴォーの言い回しとメソッドの内面からの表現は結び付いていたと私は思う。自分を伏せて相手の本心を探るような葛藤の演技は、若い役者たちには試練そのものであったが、まずはコトバを立てながら演技をつくる指導をした。

о 例えば、『贋の侍女』では結婚契約と違約金をめぐる計算づくの男と夫人とのやり取り、男装して婚約者の本心を探る令嬢の駆け引き、男装の令嬢に口説かれながら揺れ動く夫人の心の葛藤など、騙し合いのなかにおこる笑いと残酷さは実に現代的。

о 渋谷ジァンジァンでは第10弾まで、計11本のマリヴォー作品を取り上げたが、2000年劇場が閉鎖された。その後、再演物が多かったが、2015年の『偽りの打ち明け話』(下北沢小劇場B1)で13本目を上演し、マリヴォー連続上演に一区切りつけた。

 

о それらの過程を辿ってみれば、札幌のロフトから都内の地下空間へ、さらに青山円形劇場へと様々な異なる空間へのチャレンジでもあった。

о ゴルドーニの作品は、『ヴェネツィアのふたご』(ベニサン・ピット)『ヴェネツィアのカフェ』(新宿スペース107)『ミランドリーナ〜宿の女主人〜』(青山円形劇場)の3本を上演。

 

<演技指導について>

о 日本では時間をかけて演技の基礎を身につけていくことが非常に難しいし、興味を持たれない。

о 演技に関する共通言語が持てない状況がある。内向する体質を持った日本人は声をのみ込みながら話す。

о 自立したクリエイターを目指す訓練においてさえ自分を抑えつけてしまう。積極的に創造力を外に表さない、創造力が発揮されないのである。

о さらに創り上げていく役者への配慮や敬意を払う環境がないことが大きな問題である。

 

о 日本の演劇を近代劇の始まりから新劇の背景を見直しているところだが、川上音次郎は1900年にニューヨークで日本人として初めて演劇学校を見学し、女性の参加も目撃している。妻の貞奴は日本人最初の女優。

о 村井健氏は『海を越えた演出家たち』の中で、音次郎のニューヨーク・アクターズスクールの見聞を記している。

о 日常を観察し分析する啓発的な教育法で、日本の演劇界とはまるで違う世界。アメリカでは役者は自発的に積極的に動く。しかし日本では役者たちは指示待ちが多い。その両者を対比してみると、近代劇作法の見直しも必要かもしれないと思う。

о 近代劇の対立や葛藤の先にある表現を探求していきたい。

        (以下若干録音抜け)          (小石新八・記)

 

 

 

NPO法人ペタアートネットジャパン(PAN-J  アート研究講座(2016年度)

「表現者の宇宙」〜アーティストの背後から見えるもの〜  (3)  

 

<講座要旨>

第五回 6月27日(月) 房園浩一氏 (大判写真家)

 「今、なぜ大判写真なのか」

 

о 私たちは大型の銀鉛フィルムを使った写真を大判と言っている。デジタル画像の大判(大型サイズ)とは異なる領域でカメラも大型を使う。

о フィルムも4×5インチ以上の板状のものを使う。4×5、8×10などいくつかのサイズがあるが、ホルダーで保護するので持ち運びは不便。移動式の暗箱を使って屋外撮影もする。

о 4×5(しのご)のカメラは通称リンホフとも言うが、レンズとフィルムの間に蛇腹があり、焦点を調節する。別称テクニカル・カメラとも呼び、蛇腹は短く扱いやすい。

о さらに大型のビューカメラという蛇腹の長いタイプもある。これは撮影には便利だが、持ち運びは重く不便である。蛇腹が長いので、焦点深度の調節が細かく扱える。

 

 <大判写真の特徴>

о 露出計のデータをレンズに反映させ、絞りとシャッター速度を決めて、レンズに直角に光軸を調節することができる。

о 光軸を意識的に変えて、対象物の手前から無限大までピントを自由に合わせることができる(パンフォーカスという)。〔道路架橋工事の写真を提示しながら説明〕

о 構築物の隅から隅まで、各部分にピントを合わせることもできる。〔風景写真を示しながら〕雑木林の枯れ枝の細部までピントを合わせることもできる。

о 一般の写真では、光をとらえる範囲の平均的な明るさをとらえるが、大判写真では画面の中で強調したいところを目立つように露出を決めることもできる。

о また光を与える部分と与えない部分を選択できる。例えば、秋のすすきの穂にフォーカスを決めたら、構図を決め、露出係数を測り、フィルムを入れて対象の特性をとらえる、という手間をかけて準備する。

о 銀鉛フィルムの特性を生かすためポジフィルムを使っているが、ポジフィルムは発色の幅が狭いので、露出の選択より絞りのデータを変えて撮ることが多い。現像の際にテストする場合もある。

о メーカーによるフィルムの発色の違いもあるが、フィルムの種類も多いので選択して使う。

о 4×5インチのカメラは150mmが標準になっている。絞りを大きくすると、焦点深度が深くなる。シャッターは遅くしていかねばならない。

о 10年ほど前、ロシアのサハリンで大判写真展を開く機会があった。しかしロシアではまだ写真を楽しむ一般の人は少ない感じがした。写真を撮ることを楽しむには社会に余裕が必要である。絵画のほうが歴史が古いから写真はこれから・・・とも感じた。

 

 <自然界と写真>

о 風景写真を撮る目的の一つには、今ある自然を記録に残していきたいという感謝の気持ちがある。

о 大判写真の写真集の売り上げなどは、環境保全の団体などに寄付してきた。自然への感謝の気持ちである。

о 自然の中に題材は無限にある。私の持論は「地球全体が写真のスタジオである」ということである。

о 人間の感覚は「五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)」と言われるが、その中で写真は視覚の表現である。料理を食べる味覚によって、食べた人が料理を作る人に感謝するように、写真を通していろいろなもの(メッセージ、感覚)を伝えることができると考えている。

о 自然には雑多な題材が混在しているので、構図によってどれを採り上げるか、主題が決まり、選ぶことができる。

о 写真の効用は一つに固定しないで、「もう一つ何かあるのでは・・・」という姿勢、

「アナザーワン」という意識をもって取り組むことにしている。

 

  (以下展示写真「風景」と「道路架橋現場」の説明で終了する)

                           (小石新八・要約記述)